中原街道(旧道)


現在の中原街道(郷の関橋から)
現在の中原街道(郷の関橋から)

現在の中原街道

「中原街道」は,現在では神奈川県川崎市中原区の「丸子橋」を起点とし, 神奈川県茅ヶ崎市の「茅ヶ崎駅前」を終点とする「神奈川県道45号丸子中山茅ヶ崎線」として整備されています.古代から街道として通行されていましたが,江戸時代に現在の国道1号線が「東海道」として開かれた後は,参勤交代の行列との遭遇で頻繁に 渋滞が生じる東海道を避けるための東海道の裏街道として庶民には重宝され,この地域に将軍が鷹狩りに訪れた際にも利用されていたようです.

広域地図で見ると,中原街道は起点と終点の間をほぼ最短距離で直線状に結んでいますが,後北条氏が16世紀に狼煙を使って古道が直線状に再整備したためとされています.

「中原街道」と呼ばれるようになったのは,徳川家康が江戸と駿府の間を往還する際の宿泊地として中原御殿(中原城)を平塚市に築いて以降のことで,中原御殿にちなんで名づけられたものです.なお,中原御殿は1657年には廃され,現在は平塚市立中原小学校の敷地に中原御殿跡の石碑と説明板があるのみです.

茅ケ崎~勝田地域(明治39年)
茅ケ崎~勝田地域(明治39年)

茅ケ崎~勝田地域と中原街道 

現在の中原街道は郷の関橋の下の谷状になっているところを南北に通過していますが,茅ケ崎~勝田地域における最初の測量図(明治39年測量)によると,当時の中原街道は,勝田橋から勝田杉山神社の境内の脇を通過して,峰状の地形をたどって南に延びていたことが分かります.この旧中原街道は,現在は介護付き有料老人ホーム「イリーゼ」横のT字路で途切れていますが,ニュータウン開発に伴う区画整理前には,現在の「港北ニュータウン・イオ」や「シティテラス横濱仲町台壱番館」の敷地を通り抜けて,向原~大塚原方面に至っていました.

勝田町にある関家住宅は,16世紀前半の建築の南関東で最古の古民家(国重要文化財;個人宅のため教育委員会主催の見学会などを除き非公開)ですが,江戸城から中原街道を経て鷹狩りに訪れた将軍が 立ち寄った記録があるようです.

昭和になると,中原街道経由で勝田~新丸子間に乗合バスの運行が1932年に始まりました.いわゆるボンネットバスと呼ばれるT型フォードの車両で,定員は約10名だったそうです.この地域にとっては初めての公共交通機関でした.

中原街道旧道
中原街道旧道

中原街道旧道

中原街道の旧道の周辺には,長い歴史をもつ複数の寺社があります.

勝田山最乗寺は1550年頃の創建で,現在の本堂は1795年の建立とされています.

また,綱崎山寿福寺は,平安時代末期に長福寺(真言宗)として創建され,その後衰微していましたが,江戸時代初期に浄土真宗本願寺派の寺として再興され,1716年に寿福寺に改名しました.寿福寺への入り口につながる路傍には馬頭観音が祭られていて,街道の往還が難儀だった昔を偲ぶことができます.

さらに,都筑区から緑区にかけての一帯には多数の「杉山神社」を名乗る神社が存在しています.838年2月 に「武蔵国都筑郡枌山(すぎやま)神社が霊験あらたかなため官幣にあずかった」との記事が続日本紀 に記載されているほどでありながら,多くの杉山神社の中で最初に開かれた元宮がどこなのかが特定されていないとのことです.そうした中で「勝田杉山神社こそが杉山神社の元宮と考えられる」とする説(坂本彰著「鶴見川流域の考古学」)もあります.

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