綱崎山遺跡

綱崎山(つなさきやま)遺跡は,弥生時代中期(宮ノ台期;紀元前100年頃)から古墳時代にかけての環濠集落跡や古墳からなる遺跡でした.港北ニュータウンの開発の中で発見され発掘調査が行われましたが,宅地開発のために現在は姿をとどめていません.古代の様子は,ほぼ同時期の遺跡であり,遺跡としての規模も内容もほぼ同じ,早淵川を挟んだ対岸にあって国の史跡として保存されている「大塚・歳勝土遺跡」から偲ぶことができます.しかしながら,綱崎山遺跡に弥生時代人が住み始めた時期に大塚・歳勝土遺跡にも弥生時代人が住み続けていたのかどうか,あるいは,両遺跡に同時に弥生時代人が住んでいたとすれば両者がどのような関係にあったのかなどは解明されていません.

このページの写真の出典は(財)横浜市ふるさと歴史財団の港北ニュータウン地域内埋蔵文化財調査報告36「綱崎山遺跡」(2004年出版)です.

綱崎山遺跡の発掘調査時(1988年頃)の航空写真
綱崎山遺跡の発掘調査時(1988年頃)の航空写真
弥生式土器(綱崎山遺跡から出土)
弥生式土器(綱崎山遺跡から出土)

弥生時代

弥生時代は,紀元前8~9世紀ころに始まり,紀元後3世紀ころまで続く時代区分です.その特徴は水稲耕作の技術にあり,水稲農耕が生活の基盤となることにより社会のあり方が革命的に変化したと考えられています.この文化は,朝鮮半島を経て,まず九州地方に伝わり,その後,徐々に東進して関東地方まで広まりました.

綱崎山遺跡を作った弥生人が水稲耕作をした場所の有力候補として推測されるのは,緑道「せきれいの道」の西側のエリア(茅ヶ崎二丁目)です.

せきれいの道沿いにあった水田(1966年)
せきれいの道沿いにあった水田(1966年)

せきれいの道沿いの水田

緑道「せきれいの道」の脇には,茅ケ崎公園自然生態園内の湧水を源流とする小川が流れています.ニュータウン開発によって宅地化される以前には,この小川は 「荒磯川」と呼ばれており,その水を引いて,その左岸には,現在の「なのはな公園」周辺から茅ケ崎中学校グラウンドまで帯状に棚田になった水田が営まれていました.荒磯川という安定した水源があり,治水対策のなかった早淵川が氾濫しても水没するリスクがない,この地帯を選んで水田を切り開いた人々が,弥生時代のニュータウンとも言える綱崎山遺跡を築いて住んでいたのかも知れません.

綱崎山遺跡1号古墳(円墳)
綱崎山遺跡1号古墳(円墳)

古墳時代

綱崎山遺跡には古墳時代にも人々が住み続けました.寿福寺の墓地に隣接して円墳(直径17.5m,高さ2.7m)が確認されています.円墳の周辺には土師器や須恵器の破片が見つかり,それらから6世紀末から7世紀初頭に築かれた古墳と考えらています.

また,古墳時代の出土品としては,翡翠製の勾玉(まがたま)も綱崎山遺跡で見つかっています.

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