茅ケ崎貝塚

茅ケ崎貝塚の発掘調査
丘の上の大量の貝殻の堆積がよほど目についたのでしょうか,茅ケ崎貝塚の存在は地元では古くから知られており,「貝塚谷戸」あるいは「字(あざ)貝塚」のような地名にも織り込まれていました.1927年に初めての発掘調査が小規模に行われましたが,茅ケ崎貝塚の全貌が明らかになったのは,港北ニュータウンの開発にともなう,1970年の予備調査と,1987年から1988年にかけての本格的な発掘調査が行われてからのことでした.現地では1960年代に造園業者による大量の黒土が掘り取られたため,遺跡の保存状態は必ずしも良くはありませんでしたが,それでも発掘により,縄文時代前期(約6,000年前)から中期(約4,500年前)にかけての居住地であったことが判明しました.また,先土器時代(1~3万年前)の剝片もわずかながら見つかりました.

茅ケ崎貝塚遺跡の概要
現在は港北ニュータウン イオ フォーリアの杜の4番館~5番館が建っている付近の台地中央部に, 85基に及ぶ墓壙群を中心に,それを取り巻くように27軒の竪穴建物や,3基の貯蔵穴,1基の土坑内貝層が発掘により見つかりました.それらに加えて,台地の北斜面と西斜面にそれぞれ1つずつの貝層があることは発掘以前から知られていました.西斜面の貝層は,フォーリアの杜の公開保存緑地となっている西側斜面に現在も残っています.

茅ケ崎貝塚の出土品
遺跡の出土品からは,約6千年前に当地に住んだ人々が使った道具や,食べていた食料が分かる出土品が見つかりました.狩に使った矢じりに使われていた黒曜石は分析により伊豆諸島の新島産であることが判明しました.食料は,海産の貝類や魚類に加えて,イノシシのような動物,木の実などを食べていたようです.縄文前期は温暖な時期だったため海面が高く,東京湾が早淵川の勝田橋付近まで入り込んでいました(縄文海進)ので,当地はウォーターフロントにある高台と言うべき立地にあたっていました.茅ケ崎貝塚の住人は主に海に生活基盤を置く人々であったようで,気候が慣例化して海岸線が後退すると,それを追うように当地を去っていきました.